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お題:波、昼寝

 午後の空き教室は暑かった。事務室が電気系統を管理しているため、授業の行われていない教室のエアコンは動かないようになっているのだ。公立高校にはお金がないのだ、としばしば教師が漏らしていた。
 実苗と、最近仲良くなった沙也子と睦美。隅に固まって座っているのもあって、三人しかいない教室はひどく静かだった。隣の教室からと思われる数学教師の声のみが、遠くに聞こえる。滞留した熱気と合わさって、空間がねじれるような錯覚に実苗は襲われた。
「これさー、サボらずに授業に出て、クーラー効いた教室で寝た方がよかったんじゃない?」
 その静けさを破って、沙也子が実苗の後ろから苦笑を含んだ声で言った。
「……でも睦美はすごいなー」
 沙也子が一言付け足す。睦美は実苗の横で机の上に突っ伏している。彼女はこの暑さを避けるため、いち早くけだるい午睡に入っていた。悪夢を見てしまいかねないだろうに、と実苗は呆れながら彼女を見やる。
「……実苗、もうそろそろ私たちに慣れた?」
 実苗は何も返さなかった。お昼休みにいきなり、今日の午後の授業サボろうよ、と言い出したのは沙也子だった。一週間ほど前に、それまで一人で行動していた実苗へ声をかけて自らのグループに入れたのもまた、彼女だ。
「実苗まだ私ぐらいとしか話さないけどさー。他の子たちも、実苗と全然タイプ違うかもだけど同じ女子じゃん。遠慮しなくていいってー」
 沙也子は今日も実苗と仲良くなりたくて誘ったようだ。それで、ついでに沙也子に賛同した睦美と、三人で教室を後にしたのだ。結局校舎内でこうやって倦怠を享受してはいるのだが、いつも真面目に授業を聞いている実苗には経験をしたことのない状況だった。
 実苗はクラスで浮いていた。実苗にも、自らが高校生らしくない諦観や冷静さその他諸々を持っていることはわかっていた。何より、実苗は他人を恐れていた。だからわざわざクラスに馴染もうとは思っていなかった。教室内の明るい笑い声は常々実苗の胸に重くのしかかり、また、他愛もない会話によって自らが「異常」であることを思い知らされている。そして言わずもがな、実苗を仲間に引き入れた沙也子も、そういった明るい笑い声を上げ、他愛のない会話をする人間だった。実苗には自分を心配してくれる沙也子をありがたく思いながら、一方で「普通」な沙也子に対するどうしようもない憧れと嫉妬を覚えていた。
「……沙也子はさ、私を」
 実苗は呟いて、後ろを振り返る。そして押し黙った。
 沙也子は今や椅子にもたれ掛かったまま目を閉じている。実苗ははだけたシャツから覗く鎖骨に乗っている華奢なチェーンを見、その後白い肌の細やかにきらめく水滴を見た。ひそめられた柳眉が、この暑さに対する不快さを意味している。流行り色のリボンもベストも暑苦しい。自分で染めたとおぼしき校則ギリギリの茶髪が頬に額にかかり、微量の汗を吸い取っていたし、薄い化粧は午後を回って落ちつつある。彼女はいわゆる普通の女子高校生であるはずなのに、実苗は天使のように錯覚し、目を見張った。異常だ。暑さのあまり見た幻覚であり、実苗の異常さゆえに見えた幻覚だろうと、頭の片隅で思いもした。
 沙也子は異常なのか? と実苗は自らに問いかけた。実苗とわかり合える人間なのだろうか。一瞬他人を恐怖する自らの本性を忘れ、実苗はまじまじと沙也子の寝顔――まだ眠りには落ちていないのかもしれないが――を見つめた。陽炎が沙也子の本質をゆがめていても、それでも、と思う。
 実苗は学校の最寄り駅から数駅行ったところにあるビル街を思い浮かべた。娯楽施設とオフィス街が立ち並ぶ、人通りの非常に多い地域だ。実苗にはそんな場所はおぞましく思われ、幼い頃に親に連れられて行ったことを除けば一度も足を踏み入れていない。しかし沙也子たちと友達になってからの一週間、放課後になるたびにしつこくそこへ遊びに行こうと誘われた。断り続けることに対する罪悪感と居場所のなさが、実苗を苛んでいた。
「ねえ、沙也子!」
 沙也子は実苗の滅多に聞かない大声に体を震わせ、椅子から背中を離した。
「えっどうしたの、いきなり」
「……行こう」
 実苗は頬を上気させてそう言った。沙也子は首を傾げたが、やがて実苗の意図するところを理解したのか、そのカラーコンタクトが入った目を大きくした。そして笑った。
「実苗がそんなこと言うなんて珍しいー、ついにやる気になったんだ!」
 沙也子がいる今なら、どこへでも行ける気がした。空き教室での午睡の中で、暑さゆえに見た悪夢の世界だと割り切れる気もしたのだ。
「うん」
「睦美はどうするー?」
 彼女は実苗が大声を上げたにも関わらず未だ眠っている。沙也子が睦美の肩に触れ揺り起こそうとしたが、実苗はそれを押しとどめた。二人でいるからこそ非現実であるような気がしたのだ。
「……寝てるみたいだし、そっとしといてあげようよ」
 沙也子は、せっかくやる気が出した実苗が言うなら、とその提案にいたずらな笑みを返し、頷いた。

 どこに行っても暑かったので、階段を降りている時も校門を出た時も、駅について改札を抜ける時も、幻覚に陥ったまま過ごした。実苗は、右斜め前のスカートの裾が揺れているのを、ひたすら見つめて歩いた。本来なら授業を受けているはずの時間に校外へ出ること自体が実苗にとって完全な非日常であり、それも夢から覚めないのに一役買っていた。
「実苗は家、遠いんだっけ? 電車は大丈夫なの?」
「朝早く起きて、自転車で来てる」
「朝の電車は人多いからねー。痴漢出るし最悪だよ」
 ホームに掲示されている時刻表を見ると、すぐにでも電車が来るようだった。線路にはやはり陽炎が立ち上っている。いつもなら線路上に立つ自分を幻視するのだが、今は誰もいなかった。
「この時間は?」
「あんまり多くないかなー……不安?」
 沙也子は再びいたずらな笑みを浮かべた。電車を知らせるベルを実苗は聞く。エアコンの効いた車内に入ってしまえばこの夢は終わって午睡から覚めるのかもしれない、と思った。悪夢を見ずに済むという安堵と、無情な現実に戻ってしまうという失望が実苗の胸に広がった。だがしかしその心配は無駄だった。鬱陶しい熱風が二人の顔を撫でたのと同時に、実苗の右の手のひらに熱いものが触れたのだ。実苗が手を引っ込めようとした時には、既にそうできないようになっていた。
「不安なんでしょー」
 沙也子が笑いながら繋いだ手を持ち上げてみせる。実苗を逃さまいとしたのか、アプリコットピンクに塗られた形のよい爪が実苗の手に半ば食い込んでいる。沙也子の手はうだるような外気よりもなお熱かった――ああ悪夢はまだ覚めないのだと、実苗は思った。
「大丈夫だよー私が付いてるって……ずっと思ってたけど、実苗、人多いところが苦手っぽいよね」
 開くドアから漏れ出す冷気が実苗を包んだ。ドアの近くに場所を取りながら沙也子が言うので、実苗は頷く。
「もーそんななら絶対将来困るじゃん。今の内に慣れなよー」
 沙也子は手を繋いだまま街を歩いてくれるだろうかと思った。空き教室で見た天使は、実苗だけが知っている沙也子の異常な側面だ。沙也子は普通の女子高生を演じながら、背中の内に大きな羽を持っているのだと思った。彼女が異常だとすれば、それでもうまく周りとやっていけているのだと思えば、実苗の心も軽くなる。
 実苗は小気味よい電車の音を聞きながら、沙也子の手の熱を確かめる。自らの思考に沈み込んだ実苗を見て、沙也子は勝手に緊張しているのだと思ったのか励ましの言葉を二言三言発したが、反応が薄いのを見、気を遣って何も言わなくなった。
 実苗は、自分が異常でもいいのだという甘やかな夢想に浸っていた。クラス編成から数ヶ月経って、初めて会話した彼女は、沙也子と呼んでくれていいよと笑ってくれた。もしかすると彼女なら実苗のいる異常から救い出してくれるのかもしれないと思った。普通の仮面を身につける方法を教えてくれるのかも、徐々に普通の他人と仲良くできるように待っていてくれるのかも、と。睦美や他の友達と笑いながら他愛のない話をする自分を実苗は考えている。今はうまく想像できなかったが、いつかそれが現実になるのかもしれないという淡い期待を抱いた。今や彼女に抱いていた嫉妬は消え、自分勝手な憧れと崇拝で実苗の胸は満たされていた。
「危ないよ実苗っ」
 押し寄せる人波が、不意に繋いだ手を引き裂いた。実苗ははっとして顔を上げる。
「あ、沙也子――」
 気付くと実苗は既にホームを降り、改札を抜けて人波の流れに立っていた。無数の人間の中に一人でいるのだ。沙也子を探す腕が伸びるが、すぐに実苗は人波に呑まれた。立ち止まった実苗を人々が胡乱な目で睨み、これみよがしに舌打ちしため息を吐いた。沙也子の姿はすぐに見えなくなった。
 実苗は体が浮き上がる感覚を覚えた。虫けらのような人間の波の中にいる自らを、俯瞰で見下ろしているのだ。血流に乗る細胞たちならどれほどよいだろうか。しかし彼らは川の中に漂う微生物と同じく、ご丁寧にもいちいち命を持っている。実苗だってそうだ。そんな思考へ至る自らに、吐き気すらした。やはり自分は異常なのだと実感した。
 目をひしぎ耳を塞いでうずくまると、恐怖は幾分和らいだかのように思えたが、それは錯覚だった。背中に頭に当たる人間の足はあまりにも有機的だったのだ。どれほどきつく耳を塞いでも、あらゆる音の混じった喧噪の前では意味をなしていない。にも関わらず、実苗を気遣う声は降ってこなかった。
 悪夢なら覚めてくれ、この午睡から解放してくれ、と実苗は思った。教室の中で机から顔を上げて額に触れると、玉のような汗が滲んでいることに気付くのだ。沙也子と睦美が苦笑しながら、実苗はうなされていたと言ってくれるような現実を求めた。しかし現実こそがどんな悪夢よりも悪夢なのだった。
 不意に制服のポケットの中で携帯が震えた。実苗はそれに気付き、右手を耳から剥がす。震える携帯の画面には沙也子からの着信を示す文字が浮かんでいる。携帯と繋いだ右手が熱くなった。もしかすればこれは救いなのかもしれない。携帯の電磁波に乗って自分を救いに来てくれる制服の天使を思い浮かべた。この異常をどうにかしてほしかった。実苗は息急ききって携帯の通話ボタンを押した。
「……もしもしっ」
「もしもしー実苗? ごめんねーはぐれちゃって」
 ひどい喧噪にその声とすらはぐれそうになる。実苗は沙也子の言葉の端を必死で掴もうとした。沙也子はいつもと変わらない声色をしていた。
「大丈夫ー?」
「あの、沙也」
「ごめんねー……あ、でも人混みに慣れるいい機会じゃん。待ち合わせしようよ。私今日行きたいお店あったんだー」
 携帯の温度が一気に下がった気がした。プラスチックのはずのカバーが、実苗にとっては氷のように冷たい。
 私は沙也子がいたからここまでこれたのだから、嫌、お願い、怖いから迎えに来て――とは言えなかった。言おうとしたが、その前に呑み込んだ。子供じみたその言葉は高校生が発するには異常過ぎた。やはり沙也子は普通なのだ。実苗とはぐれてしまったことに何ら焦りを覚えていない。
「そ……うだね。でも……」
 絞り出した声は喧噪にかき消された。
「えっ、なんて? ……とりあえず百貨店の前で待ち合わせよー」
 実苗は既に声を掴むことをやめ、携帯から漏れ出すままにしていた。今日はもう沙也子に会える気がしなかったのだ。言葉を呑み込んだ時に、実苗は、沙也子との間に漠然とだが大きな壁があったことを思い出した。普通である沙也子に対する耐えがたいあこがれと嫉妬――彼女も他の人間と同様に恐ろしくなりつつあった。
 かつてないような感情の波が、無数の人間と同じように実苗へと押し寄せた。人間達は焦りであり、恐怖であり、憤りであり、失望であり、劣等感だ。実苗は力を入れ過ぎて震える右手に気付き、その抑えきれない感情を左手に移してスカートを握り締めた。声を上げて泣いてみたい気もしたが、そうしない程度には大人だった。
 眼前にベージュのスラックスが目に入り、次の瞬間には携帯が手から離れていた。腕を蹴られたのだと気付いたのは、邪魔だこんなところに座っているんじゃない、といったことを振り向きざまに吐き捨てられた後だった。携帯は人々の足の間に転がり、さらに蹴られて見えなくなる。拾い上げてくれる人がいたのかもしれないが、実苗のところには戻ってこなかった。しかしそれでよいのだとも思った。沙也子が携帯へ向かって不審げに実苗を呼んでいるところを想像する。何度か名前を呼んだ後に、会えないのなら仕方がないと思って通話を切り、一人で買い物を楽しむのだろう。それで明日は何事もなかったかのように実苗に挨拶をするのだ。実苗は吐き気を催した。
 それが普通なのだ。実苗は異常なのだ。常に突きつけられていた事実ではあったが、一瞬でもそれを疑わせてくれた沙也子の寝顔が目に焼き付いていた。
 実苗はどっと押し寄せる疲れを抱えたまま立ち上がる。沙也子との待ち合わせも、誰かが届けてくれたかもしれない携帯も諦めた。未だに現実であることを否定する実苗がいた。夢だとすれば、もうすぐ覚める。


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